昔から飲まれている日本のお酒と言ったら日本酒を思い浮かべる方が大半だと思いますが、そんな日本酒も初めから水の様に透き通っていたわけではなく、昔は透明にする技術が無かった為、濁ったお酒を飲んでいました。
それが、どぶろく、濁り酒といったものになります。
清酒とは、原料がお米であり、「こす」工程が含まれているアルコール度数22%未満のお酒を指し、どぶろくには「こす」過程がないので清酒ではなく、濁り酒はその製造過程で「こす」ので濁り酒は清酒の一種と言えるのです。
ちなみに日本酒はアルコールを含む日本古来のお酒の通称なので、清酒もこれに当たりますがみりん等も含まれたりします。
では、静子が作ったお酒はどのようなお酒だったのか推測していきたいと思います。
静子が作った清酒の味と製造方法
作中、静子が信長にお酒を振舞う時に、普段濁り酒を飲みなれている人たちに清酒が受け入れられるか不安に思う場面がありますが、静子が作ったお酒は清酒の一種である事は間違いありません。
清酒の種類
一口に清酒といっても色々な種類があり、大吟醸、吟醸、本醸造、純米大吟醸、純米吟醸、純米酒など8種類ほどに分かれており、これは、原料となるお米の削られ具合によって分類されていています。
米の精米 | 原料に醸造アルコールを含む | |
90% | 純米酒 | |
70% | 本醸造酒 | |
60% | 純米吟醸酒 | 吟醸酒 |
50% | 純米大吟醸 | 大吟醸酒 |
◆特別な製法で作られる
60% | 特別純米大吟醸 | 特別本醸造酒 |
戦国時代にお米を削る技術はそこまで進歩していないと思うので、静子の作ったお酒はお米の削られ具合が90~70%程度で作られる、本醸造酒か純米酒のどちらかになり、そして、純米酒と醸造酒の違いはお酒を造る過程で一緒に混ぜるものに醸造アルコールが含まれるか、含まれないかで変わってきます。
信長にアルコールの生産を頼まれていたので、醸造アルコールの製作には成功しているので、静子の作ったお酒は米と麹と水と醸造アルコールで作る本醸造酒だったのではないでしょうか。
清酒の歴史
実は清酒は諸白(もろはく)という製造方法で奈良時代位から作られていて、既に透明度の高いお酒があったようです。
これは白米でお酒を造る方法で、現代の普通のお酒の作り方と変わりませんが、精米技術が乏しかった時代では大変難しい事なので、大変高価なお酒でもあります。
よって、一般に製法が簡単な玄米を用いて製造された濁り酒が主流でした。
いつ頃ぐらいから、現代のような透明なお酒が一般に普及したかと言いますと江戸時代に入ってからになります。
酒蔵を首になった使用人が腹いせに酒樽に灰を投げ入れたことによりお酒が透明になり味がまろやかになった事から研究が進み、ろ過することを工程に入れることで現代の清酒製造に繋がっていくことになるんですね。
静子も職人たちと試行錯誤の上清酒を完成させたとあるので、濁りを取るためのろ過装置、もしくは灰の量の調整が難しかったのかもしれません。
清酒とどぶろくの味の違い
清酒を振舞われた信長一行はいずれ濁り酒を清酒が駆逐してしまうかもしれないと絶賛しています。
この時代の清酒は一般の武将には手が届かないほど高級で主に寺院で作られていた為、仏教僧と対立関係にあった信長には手に入りにくいものだったはずです。
そのため、信長が普段飲んでいたお酒は玄米で出来た濁り酒とどぶろくだったと思われます。
どぶろくは米と米麹と水でできていますが、もろみと呼ばれるどろどろの状態が完成形です。
そして、どぶろくがどんな味かといいますと、作った会社にもよりますが、大体、口当たりがコッテリしていて、甘酒をフルーティーにしてアルコールが入った様な味がします。
対して、清酒は口当たりがスッキリしていて、フルーティーであることには変わらないですが、のど越しが爽やかです。
どちらがより飲みやすいと感じる人が多いかと言われると、清酒を選ぶ方が大半になると思うので、先に書いたように信長たちは静子の作ったお酒を絶賛したのでしょう。
清酒を世に広めたことによる影響を考察
静子は戦国時代では、寺院が独占していた清酒を世に広めてしまいました。
清酒造りは寺院の特権だったはずなのですが静子が世に広めてしまったことによって、この世界の寺院の立場が今後どうなっていくのか気になるところではあります。
信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしに行くのが1571年の9月です。
朝倉・浅井を匿ったことによって寺を焼き払ったと言われていますが、この作品では静子の力によって浅井長政とは敵対関係ではなくなっています。
しかし、静子が歴史に介入しても史実に近い結果がいつももたらされている様に感じなくもありません。
長政の裏切りは阻止は出来ましたが、結局、長政が浅井を追い出されただけで、浅井と朝倉は結び付き信長と敵対することは避けられませんでした。
話は戻りますが、この時代の比叡山延暦寺は寺社勢力として京都の経済活動のほとんどを牛耳っているので、当然、娯楽の一つでもあるお酒も延暦寺の支配下にあります。
彼らは自分たちの勢力下である京都の市に高い関税をかけ私腹を肥やすことに夢中で、寺院としての機能はほとんどしていない程、腐敗が進んでいて、それをよく思っていなかった信長は、楽座楽市という手数料のかからない市場を開くという政策で、経済活動を活性化させ物流を促進することによって、寺社勢力の力を削いでいく予定でした。
しかし、その政策を打ち出す前に静子の作った職人街が、信長のこの政策に近い状態の機能をしている為、本来なら緩やかに力が削がれて行くところを静子の出現により急速に寺社勢力の力を削いだに違いありません。
特に娯楽の少ない時代で唯一手軽に楽しめそうな酒の流通が、捗ればはかどるほど民意はたやすく寺社勢力から離れるでしょう。
静子が作った清酒のまとめ
静子自身お酒があまり得意でなかったから、飲みやすい清酒の製作にチャレンジしただけなのかもしれませんが、清酒は寺社の専売特許だったので遠巻きに寺社勢力の力を削いでいたという神がかったファインプレーをしていたのですね。
これから先、静子の清酒の製造の研究が進み、いつか、純米大吟醸を信長に献上するの日が来るかもしれません。